昔、深夜放送
今、旬な話題であるニッポン放送であるが、私とのニッポン放送との出会いはもう30年前以上に遡る。
当時は深夜放送の全盛期で、在京各社が競って若者向けに深夜放送を行っていた。
当時、私は深夜放送にどっぷりと浸かっていた。 当時の番組表を使って、1週間の聴取スケジュールを辿ってみた。
(ニッポン放送番組表 1974年2月号)
深夜12時前にめぼしい番組は無かった。後の70年代中頃にTBSラジオで竹谷英子(現悪役商会社長)の艶っぽい声で語る「ラジオでこんばんは」は聞き流していた。日付が変わる時報とともに、ダイアルはニッポン放送に10分間番組「あおい君と佐藤クン」そのあと、かぜ耕士の「たむたむたいむ」の20分。かぜ耕士氏は現在60歳だが、ミニFM局でこのコンセプトの番組をリバイバルされてる。
この12時から30分間は、気が向くとTBSラジオの「ハイ・ディスク」を聴くこともあった。DJはあの久米宏であった。当時はまだTBSの社員で、主にラジオのアナウンサーとして活躍されていた。
(文化放送番組表 1974年3月号)
12時半、文化放送が旺文社の「大学受験講座」が終了し、「セイヤング」が始まる。私はどうも各曜日のDJとの相性が良くないみたいで、たまに落合恵子、せんだみつおの放送を聴いた。 大概の場合、12時半からTBSの「一慶のヤングポップス」を聞き流して、1時の時報を迎える。
(東京放送(TBS)ラジオ番組表1973年11月号)
1時からは、殆どTBSの「パックインミュージック」を聴いていた。1時から5時までで、3時にDJが入れ替わる。火曜日、小島一慶「マッドマッドクラブ」水曜日、愛川欽也はカトリーヌコーナーで始まり、ポエムで終わるが、中身は明るい下半身の話題が多かった。3時からはそらまめこと、滝良子。木曜日は南高節であったが、この日は隣の文化放送の谷村新司の「セイヤング」に逃げていた。3時には戻ってきて馬場こずえの「深夜営業」。金曜日は、私の人生を変えたといっても良い野沢那智、白石冬美の「金曜パック」、内容は「お題拝借」、聴取者から届いた手紙を役者の野沢那智がおもしろ楽しく、または真面目に読み、相方の白石冬美との絡みが絶妙であった。この、お便りは、後に「もうひとつの別の広場」として出版された。3時からは最近亡くなった林美雄だった。かれは映画について造詣が深く、おすぎとピーコを招き入れる場合も多かった。土曜は山本コータロー「恥のうわぬりコーナー」、3時からは吉田真由美だった。これが縁で、吉田は山本と後に結婚することとなった。吉田は映画評論家である。 土曜はだけは、ニッポン放送「オールナイトニッポン」の定番、笑福亭鶴光を聴いていた。「いいかぁ~、いいのんかぁ~」のエロエロモード全開。私も多感な10代で思いっきり反応した。
日曜深夜は定番番組はなかったが、TBSラジオ深夜0時からの「ラジオマンガ」、これは当時の声優達(たぶん青二プロ)が、大人向けにエロモードで、ラジオドラマを演じていた。
(毎日放送(MBS)ラジオ番組表 1974年2月号)
イレギュラーに、東京以外の放送も聴いていた。 大阪MBSのヤングタウン、深夜ではないが北海道HBCのハロードライバー、ベストテンほっかいどうなどである。
(中部日本放送(CBC)ラジオ番組表 1973年12月号)
私は、10代の前半をAMラジオで育てられたと思っている。 ラジオに影響されてかなりの部分、オトナの人格形成がなされたとおもう。
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コメント(1)
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Yesturday
いきなりのトリプルTB失礼致します。
故・ミドリブタの命日ということでお許し下さい。