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2005年03月31日
街・変貌・閉店
突然のゲイバーの閉店。事前に知らなかったので、いつものように出向いたら、張り紙がしてあり、しばし呆然とした。
(3月13日で営業を終えたLoading Dockのドアに張られた紙)
といっても、サンフランシスコの話だが。 私は、サンフランシスコの中でも、「South of Market/SOMA」と呼ばれる地域が好きだ。
10数年前そこを初めて訪れた時は、本当に薄暗い汚いエリアだった。 小さな自動車整備工場や倉庫が並び、夜は薄暗く、そこに住む人は少なかった。住んでいる人も、比較的低所得と外見からはっきりわかるか、セーフウェイのショッピングカートに自分の所有物一切を入れて流離う方々たちであった。 地元の<普通>の住民は、夜は絶対に近寄らないエリアだった。
サンフランシスコのゲイ達は、大概が「Castro」周辺に遊びに行く。 ゲイ向けに洒落たレストランやショップ、そしてナイトライフのバーやクラブもたくさんある。 ガイガイ、ワヤワヤ楽しく、昼に夜に過ごす雰囲気である。 比較的年齢構成も若い。
ゲイ達の一部にはこの「明るく爽やか」な雰囲気が苦手な人たちがいる。 レザー、バイカー、SMなどが好きな人たちだ。 そのような人たちは、敢えて、Castroを少し隔てて、SOMAに集まりだした。 もう死語に近いが「ハードゲイ」達である。
”S.F. Eagle”、”My Place”、 ”Lonestar Saloon”、 ”Loading Dock"など、レザー系バー、”Mack”、”Blow Buddies"などのSM系ハッテン場が次々と誕生した。
ある意味、一般市民から「危険なエリア」と思われていたため、それがバリアとなって、うまく隔離できていた。
時が過ぎ、現在のSOMAエリアは新興エリアとなり、「ファッショナブル」なエリアと変貌を遂げつつある。 モダンなマンションが次々建ち、自動車整備工場が、巨大なストレート向けのクラブに変わり、洒落たレストランが開店していく。
このような環境の変化の中、興味本位だろうが、赤く薄暗いレザーバーの中に、あまりのも場違いなドレスを着た若い女性が出入りするようになった。 これらのバーは、夜が更けると、奥の暗いほうでハッテン行為を行うのが当たり前だが、そこに、女性がいると、激しく萎える、少なくとも私は。
(左:SOMAのバーの店内の様子。日曜日の夜12時ごろ 右:その外Harrison St.)
これらの店は21歳以下の未成年の入場は厳しくチェックするが、男女の差で、入場を制限できない。 すると「差別」となるのである。
去年、往年で一番賑やかだったレザーバー”My Place”が閉店した。 そして、今月、古いレザーバーの雰囲気を受け継いだ”Loading Dock”も閉店となった。 しょうがない状況はわかっていても、寂しい。
現在、盛業中の”Eagle”は本来、本格的なレザーバーであったが、オーナーが変わったことでイメージチェンジをした。 すこしイメージに変わり、週末、午後の日が降り注ぐ中、レザーマン達が「健康的」にパティオでビールを飲むバーと変わった。
(S.F.Eagleの土曜日の午後。Beer Bustという、チャリティ目的の飲み放題がある)
私のハンドルネームの由来である”Lonestar Saloon”は、多分世界で一番有名で大きい「熊」バーである。 ここも途中でオーナーが変わったが「熊」を中心に、バイカー、レザーと客層をはっきりさせたこと、また、それほど店内を暗くする必要も無く、対抗する熊系バーが無かったことでビジネスとしては成功している。
地元のゲイエリアの案内本には「SOMAのバーの客は驚くほどブルーカラーの人たちである」と書かれているのを、つい最近読んだ。 私はそれを読んで、改めて認識した。 実際にここに来る人たちが全員ブルーカラーの職業に就いているわけではないが、ここにあるバーへ、スーツとネクタイで行ったら、間違いなく浮いてしまう存在になるであろう。
今は新築でガラス張りのオーガニック専門の高級スーパーがあると思うと、その前には、旧態依然とした、「食料品店」も混在している。
投稿者 tokyobear : 16:01 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月26日
観光バスと路線バス
航空ネタである。 1ヶ月ほど前に、航空会社を乗り比べる機会を得た。 サンフランシスコに行くために自分のマイレージを使ったため、乗り慣れているユナイテッドをはずし、行きはシンガポール航空、帰りは全日空に乗った。
結果は全日空の大敗であった。 私はマイルの関係から国内では全日空しか搭乗しないし、そのサービスは悪くない。 しかし国際線は違っていた。 機材が古い機材ということがあるが、シートが全く比べものにならない。行きがシンガポール航空の「スペースベッド」と称する、ほぼ横になるシートとは雲泥の差である。
機内食についても全日空は、一つのプレートでおしまい。 シンガポールや、あのユナイテッドでさえ、前菜のあとメインコースを持ってくる。
客室乗務員のサービスも何となくぎこちない。 シンガポールのようにいちいち名前を呼ばれるのも恐縮してしまうが、「垢抜けていない」「洗練されていない」「国際線なのに国際感覚がない」という感じなのである。
全日空の国際線の乗客はほとんどが日本人である。よって、グローバルスタンダードを打ち出すより、より日本人に媚びたサービスとなるのであろう。
どこかで読んだのだが、米系の航空会社と日系航空会社のサービスの違いは「路線バス」と「観光バス」の違いのようだと行っていた人がいたが、的を射た表現である。
投稿者 tokyobear : 11:43 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月23日
コレクション
私と相方の共通のコレクションは「ピンクのカバ」。国内外で探しているがなかなかない。 またそこが面白いのだが。 ここ5年で、まだ3つしか集まっていない。
先月、相方が大阪市内で見つけたことで、コレクションが増えた。
投稿者 tokyobear : 01:39 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月20日
大阪ではコンドーム配布休止
この前書いた、MASHOsakaが発行する「Sal」で興味深い記事があった。 3年間続けてきたコンドームの無料配布をこの4月から休止するとのこと。
配布は続けたいのだが、予算が厳しくなり配布できなくなったのは、公的機関からの資金調達が減少してしまったためであろうか。 コンドームの無料配布は、HIVの蔓延を防ぐためには有効な方法であろう。
しかし、受け取る側の問題もある。 あまりにも簡単にコンドームを無料で手に入れることができるため、そのコストについて考えなくなったことである。 水や空気と同じ考えであろうか。 本来コンドームは極めてプライベートに使われる物であり、使用する人が個人的に入手すべきであろう。 経済的に困っているならいざ知らず、大概の人は、容易く購入できる価格の物である。
コンドーム配布のコストがかかりすぎ、団体としての活動が制限されることとなるならば、休止は仕方がない。
日本では中々難しいとは思うが、「コンドーム配布基金」を創設して、寄付を募ったらどうであろうか。 上手にPRしてネットや携帯電話でで決済できればかなり集まると思うのだが。 MASHOsakaだけで年450万円の費用がかかっていたとは、少し驚いた。
投稿者 tokyobear : 20:03 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月16日
昔、深夜放送
今、旬な話題であるニッポン放送であるが、私とのニッポン放送との出会いはもう30年前以上に遡る。
当時は深夜放送の全盛期で、在京各社が競って若者向けに深夜放送を行っていた。
当時、私は深夜放送にどっぷりと浸かっていた。 当時の番組表を使って、1週間の聴取スケジュールを辿ってみた。
(ニッポン放送番組表 1974年2月号)
深夜12時前にめぼしい番組は無かった。後の70年代中頃にTBSラジオで竹谷英子(現悪役商会社長)の艶っぽい声で語る「ラジオでこんばんは」は聞き流していた。日付が変わる時報とともに、ダイアルはニッポン放送に10分間番組「あおい君と佐藤クン」そのあと、かぜ耕士の「たむたむたいむ」の20分。かぜ耕士氏は現在60歳だが、ミニFM局でこのコンセプトの番組をリバイバルされてる。
この12時から30分間は、気が向くとTBSラジオの「ハイ・ディスク」を聴くこともあった。DJはあの久米宏であった。当時はまだTBSの社員で、主にラジオのアナウンサーとして活躍されていた。
(文化放送番組表 1974年3月号)
12時半、文化放送が旺文社の「大学受験講座」が終了し、「セイヤング」が始まる。私はどうも各曜日のDJとの相性が良くないみたいで、たまに落合恵子、せんだみつおの放送を聴いた。 大概の場合、12時半からTBSの「一慶のヤングポップス」を聞き流して、1時の時報を迎える。
(東京放送(TBS)ラジオ番組表1973年11月号)
1時からは、殆どTBSの「パックインミュージック」を聴いていた。1時から5時までで、3時にDJが入れ替わる。火曜日、小島一慶「マッドマッドクラブ」水曜日、愛川欽也はカトリーヌコーナーで始まり、ポエムで終わるが、中身は明るい下半身の話題が多かった。3時からはそらまめこと、滝良子。木曜日は南高節であったが、この日は隣の文化放送の谷村新司の「セイヤング」に逃げていた。3時には戻ってきて馬場こずえの「深夜営業」。金曜日は、私の人生を変えたといっても良い野沢那智、白石冬美の「金曜パック」、内容は「お題拝借」、聴取者から届いた手紙を役者の野沢那智がおもしろ楽しく、または真面目に読み、相方の白石冬美との絡みが絶妙であった。この、お便りは、後に「もうひとつの別の広場」として出版された。3時からは最近亡くなった林美雄だった。かれは映画について造詣が深く、おすぎとピーコを招き入れる場合も多かった。土曜は山本コータロー「恥のうわぬりコーナー」、3時からは吉田真由美だった。これが縁で、吉田は山本と後に結婚することとなった。吉田は映画評論家である。 土曜はだけは、ニッポン放送「オールナイトニッポン」の定番、笑福亭鶴光を聴いていた。「いいかぁ~、いいのんかぁ~」のエロエロモード全開。私も多感な10代で思いっきり反応した。
日曜深夜は定番番組はなかったが、TBSラジオ深夜0時からの「ラジオマンガ」、これは当時の声優達(たぶん青二プロ)が、大人向けにエロモードで、ラジオドラマを演じていた。
(毎日放送(MBS)ラジオ番組表 1974年2月号)
イレギュラーに、東京以外の放送も聴いていた。 大阪MBSのヤングタウン、深夜ではないが北海道HBCのハロードライバー、ベストテンほっかいどうなどである。
(中部日本放送(CBC)ラジオ番組表 1973年12月号)
私は、10代の前半をAMラジオで育てられたと思っている。 ラジオに影響されてかなりの部分、オトナの人格形成がなされたとおもう。
投稿者 tokyobear : 12:19 | コメント (1) | トラックバック
2005年03月15日
注意!UFJ銀行フィッシング
去年数回、CITIバンクを名乗るフィッシングメールが届いた。 この手の新手のネット上の詐欺は知っていたのだが、今朝、日本のUFJ銀行を名乗るメールが届いた。それも日本語のフィッシングだ。
本文を見ると、やはりなにやら怪しい。 差出人アドレスは当然、 ufj.co.jp である。
確認をしたいので書いてあるアドレス飛べと書いてある。 サーバーが混むので3つるので、どれかを使えと書いてある。 アドレス1へ飛んでみたが応答がない。 アドレスはそれぞれ https:// www.ufj.co.jp/xxxxxxxxx である。 試しに3つめのアドレスに飛んだら、生IPのサイトにつながり、口座番号と暗証番号を入力せよと出た。
とても巧妙に出来ているので、ネットになれてない人なら簡単にだまされてしまうだろう。
この件については、UFJ銀行に直接電話して、確認した。 去年はVISAのカード情報についてのフィッシングがあったと聞く。 これからUFJだけではなく、日本の各金融機関名を名乗るフィッシングが増えると思う。気をつけねば。
CITIバンク(英語)のフィッシングメール
投稿者 tokyobear : 10:45 | コメント (2) | トラックバック
2005年03月14日
BCJがNLGRに参加する訳
私が主宰している、非営利のサークル「日本ベアクラブ」(BCJ)が、今年6月に名古屋で行われるNLGRにブースを出すこととなった。
会員に何故ブースを出すのか、問われた。 説明文を書いて先ほど会員あてのメーリングリストへ流した。
BCJの現在の運営は、「セミプライベート」としている。 本来は「パブリック」としたいのだが、現実的に会の運営が、役員数人で行われることとなると、役員の人選、調整が、会の運営そのものより難しくなると判断したため、現在は過渡期として、会長一人で企画・運営をしている。
今回のNLGR参加は、BCJの初のゲイコミュニティの中での社会参加である。 いままでは、ゲイの世界の中にあっても、他の団体とは連携せず、独自に活動を行ってきた。いままで行われた東京パレードにも団体として参加する気持ちは毛頭なかった。
ではなぜ、今回NLGRに参加する事になったかは、直接のきっかけは、NLGRの親団体であるALNの方に「ブース出してみない?」と昨年暮れに言われたからである。
BCJはサークルとして、サークル内部だけで始終してる。 アメリカで地元のベアクラブの活動を詳しく見ているので、何とかして、BCJの活動が社会に還元できないか、と、ずっと考えていた。 アメリカでのベアクラブの第一の目的は「基金収集活動」であり、機会がある毎にチャリティを集めている。そして、集めた金をゲイコミュニティやHIV・AIDS啓蒙活動団体、果ては、ゲイの子供を持つ親の団体へも贈っている。
日本では、風土柄、これをそのまま持ち込むことは不可能であるし、寄付する団体の選定も難しい。
しかしながら、何らかの形で「社会還元」したい、とずっと思っていた。 その前にどのようにしてゲイコミュニティの中で孤立無縁の立場から脱せられるかは、とても難しい問題であった。 そしてNLGRへの招待であった。
今回はトライアルと考えている。 ブースでは、ゲイの方を中心に「日本にはこのようなコミュニティもあるんですよ」、「世界にもたくさん同じコミュニティがあるんですよ」と宣伝するつもりだ。
2日間、ブースに私は詰めるつもりで居る。 どのような結果になろうとも、BCJがNLGRに参加することによって、決してマイナスにはならない。
投稿者 tokyobear : 14:16 | コメント (0) | トラックバック
SaL+
先週末から大阪へ行ってきた。 倹約旅行のため、片道に成田・サンフランシスコの飛行時間と同じ時間を要するバスで往復した。 新幹線利用の約3分の1の費用で往復できた。
今回の収穫は、MASH OSAKA が発行しているSaL+を初めて読んだことである。
行きつけのバーカウンターに置いてあったのを、何気なく読んだのだが、「おもしろい」のである。
内容は「コンドーム薄さ競争最前線!」と激しく直線的タイトル。 ラテックス製、ポリウレタン製の製品紹介の他に、「使用リポート」まである親切さ。小さなエッセーあり、STD、HIV情報あり、裏面には大阪のゲイバーのリストと地図が、キタ、ミナミ、新世界と並んでいる。
これをMASH OSAKAは2ヶ月に1度発行しているのだと思うが、とてもいい。 目的は違うが、東京には「2丁目瓦版」がある。これは、2丁目振興会の発行。 比べてはいけないが、圧倒的にSaL+の勝ちである。
編集の内容、レイアウトのデザインなど、思わず「凄い!」と叫んでしまった。
投稿者 tokyobear : 13:58 | コメント (0) | トラックバック
2005年03月09日
旅
那覇へ向かう機上でこれを書いている。
放浪癖というのは、齢を重ねても変わらないものだとつくづくおもう。
おおげさに言うと、何処かへ行くことが生きている証しの部分のような気がする
(学生時代に使っていた車。十勝三俣駅で80年頃 白いバスは当時、国鉄がレールを捨て民間バス会社に委託していた糠平・十勝三俣用のバス)
学生時代、と言っても高校生からだが、日本全国を巡り歩いていた。さすがに徒歩や自転車はなかったけれど、国鉄にどれだけ払ったことか。大学に入り、一層激しくなった。大学の長期休暇は、かならず何処かへ出掛けていた。ほとんどが北海道であったが。当時は「カニ族」の終焉期で、「エビ族」への過渡期であった。「カニ族」は大学のサークルの山岳部やワンダーフォーゲル部から派生した旅行者で、カーキ色の横長のキスリングザックを背負って旅行していたため、後ろから見るとカニのように見えるのである。「エビ族」は山岳部がフレーム付きの縦長のザックが流行ったことがあった。背負うのを横から見ると、ザックとフレームが反って見えるのでこのような名前が付いた。
(旧国鉄の北海道周遊券は学生は2割引、冬季はさらに2割引であった)
当時の旅行期間も、今とは比べ物にならないほど長かった。国鉄が発売していた「北海道ワイド周遊券」は20日間有効であった。東京から北海道までの往復と、北海道内乗り放題であった。ただし特急が使えなかった。しかし当時は、まだまだ急行列車があり、それほど困らなかった。上野から青森は定期列車の夜行急行が3本あり、東北本線経由の「八甲田」常磐線経由の「十和田」奥羽線経由「津軽」であった。
青森駅にこれらの列車が着くと、乗客たちは先を争うように青函連絡船の桟橋に走った。これは青函連絡船全盛期に「のり残し」が生じたため、旅行者は学習して先を争ったのだ。
私は船舶が大嫌いだが、北海道行の船は我慢して乗っていた。青函は3時間50分であった。 函館に着くまでにもう、16時間ほど要している。函館からも特急に乗車できないので、稚内行き急行「宗谷」、札幌行き「ニセコ」あるいは夜行の普通列車43列車滝川行きを愛用していた。この普通列車は当時最古参の車両を使っていて、ドアは自動ではなく走行中でも開けられるしろもので、照明は白熱灯が使われていた。
札幌までほぼ24時間かかった。札幌からはまだ、石勝線が開通していないので、滝川回りとなっていた。釧路へは「狩勝」、網走には「大雪」、稚内へは天北線経由「天北」をよく利用した。私は紋別市に行くことが多かったのだが、札幌11時発のこの列車は連絡がよく、名寄で遠軽行きの列車に乗り継ぐことができ、紋別には午後5時前に着くというベストな列車であった。
そうやって、居候のよなアルバイトのようなユースホステルのヘルパーをしていると、あっと言う間に20日が過ぎていた。ルール違反ではあるが旅行期間が短く帰る人の周遊券の交換も、広く行われていた。こうやって何カ月も旅行する人達がいたのである。
九州、北海道はこれらの周遊券の期間が20日だったのでよく利用した。 信州は7日、北陸は10日だったような気がする。 このくらいの日数では当時は物足りなかったのかもしれない。
また私は、バイクや車でも良く行った。こうなると期限は無くなる。20時間という苦痛のフェリーを我慢すれば、新潟ー小樽間自動車1台と人一人で14500円ほど。バイクだと、運賃込みで1万円弱であった。
車で出掛けた時は、。それがそのまま宿泊施設となった。車といっても550CCの軽自動車であった。その中に寝袋はもちろんのこと、自炊道具を含む生活用品一式を積んであった。車内で調理することも可能であった。こうなると旅行期間が飛躍的に伸びて、2、3か月自宅に戻らないこともあった。当時ガソリンが高く、根室ではリッターあたり150円もしたことを覚えている。
(「夢」とまで言われた三国トンネル。トンネル内は舗装だが前後数十キロは未舗装だった)
当時は、北海道開発局が精力的に開発していたとは言え、まだまだ道は未舗装が多かった。「国道」とはいえ、十勝三股から層雲峡にかけてや、南十勝、えりもと浜大津を結ぶ336号線は100キロ以上未舗装の上、降雪期は「冬季閉鎖」となった。
(延々100キロ以上が未舗装だった国道336号線だが、集落付近だけ舗装されていた)
大学時代だけで、その軽で14万キロほど走り、北は宗谷岬から南は鹿児島までほとんどの都道府県を走破したのである。
当時からそれが日常であったので、特に記録をつけていないが、当時の日本のあらゆるところが思い出に残っている。
投稿者 tokyobear : 14:05 | コメント (1) | トラックバック
2005年03月04日
The Cub
ぼせさんの[同性が好きかもしれないキミへ]プロジェクトへのトラックバック。
今回のお題は【ゲイ・レズビアンにおすすめの映画・小説・漫画etc】である。
「熊業界」に関係が深いので、その中から最近見た映画は”The Cub”(英語)である。制作はスペインで元のタイトルは"CACHORRO" 監督Miguel Albaladejo、主演はJosé Luis García Pérezである。
内容は、マドリードで歯科医であるペドロがひょんな事から、9歳の甥のベルナルドと生活を共にすることとなる。ペドロはゲイであるが、共に生活しているパートナーはいないが、夜な夜な男達が尋ねてくる。 欲望のおもむくまま、夜の町に出ることもあった。そんな生活においても、相性の良いお手伝いさんが現れ、徐々にその生活に慣れていった。
あるとき、突然、叔母ドーナが現れる。 ベルナルドを引き取りたいと申し出る。そして、彼女は私立探偵を雇い彼の行動を覗い、公道での同性とのセックスをしている証拠写真を見せつける。そして、ペドロの医療記録を調べ、彼がHIVポジティブであることを理由に、強引に彼を引き取った。
そして、何年か時が経ったとき、ドーナがベルナルドを学校で呼び出し、彼に、もうペドロの事は忘れるよう諭す。「彼はHIVポジティブなのよ」と。 すかさず「知っているよ!」とベルナルドは言い返した。「なぜそれがいけないの?」と逆に尋ねるが、ドーナは返事が出来なかった。彼は全てを知っていたのだ。
ペドロはベルナルドがいなくなってから、体調を恐し、AIDSを発症させてしまって、入院するが、同室の患者に、「俺なんかもう6回も入院している。初めての入院ならまだまだだ」と激励される。そして退院。
教会の鐘が鳴る。棺が埋められる。神妙にしているベルナルド。学友達に抱きしめられるベルナルドへ、一台の車が止まった。 ペドロが現れ、ベルナルドを強く抱きしめる。 亡くなったのはドーナであった。そして、ベルナルドを乗せた車はマドリードへ向かって走り去っていく。
テーマは「HIVポジティブの人の生き方」だと感じた。 映画の最初で、いきなりゲイセックスシーンがあり、コンドームを着ける場面がある。 また、ベッドサイドに使用済みのコンドームがいくつか落ちているシーンもあった。
このような内容である。観た環境が言語がスペイン語、字幕が英語という環境のため、理解が不足あるいは間違っているかもしれない。 アメリカでは、一般公開されているが、ほんの少しゲイセックスシーンがあるので、その部分は検閲されている。私は特別の機会に、ノーカット版を観た。
ここで使用している写真はhttp://www.tlareleasing.com/bearcub/ からの直リンク。
New York Times の関連記事は
http://movies2.nytimes.com/gst/movies/movie.html?v_id=303927
投稿者 tokyobear : 21:19 | コメント (3) | トラックバック
イベント・テーマ
今年のインターナショナル・ベア・ランデブーのテーマは"Constraction"(工事)である。 アメリカのゲイイベントはこのあたりの演出が本当に良くできている。当然素人が企画を持ち寄って決めるのだが、細部に凝るのがアメリカ人気質なのであろうか。
(カクテルテーブルにテーマ(工事)をモチーフにした飾り付け)
私は、開催当日までテーマの内容を知らなかった。 当日受付開始を待っていると、受付台の前にロードコーンが並んでいる。 普通ならば、ロープ状のもので区切るのだが、今回はロードコーンを使って、最初から参加者を驚かせていた。
イベントスタッフも、全て、工事用のヘルメットを着用していた。 たくさんの参加者の中、スタッフの確認が容易になり演出にもなる、一石二鳥である。
コンテストの際、カクテルを飲むためのテーブルがいくつか置かれていた。そこにも、小さなヘルメットが置かれていた。
このような洒落たマネをされると、日本のゲイイベントが彼らに追いつくのは、もう少し時間がかかりそうだと感じた。
(c)BEAR-FILMS, 2005
投稿者 tokyobear : 17:47 | コメント (0) | トラックバック
表現
ここ2,3日このブログを書くことが出来なかった。検索エンジンで、些細な単語が引っかかり、急激にアクセスが増えたためだ。 普段なら放っておくが、今回の場合は、若干事情が違った。
ここ何日かに、このブログに飛んできた人は、高校受_験生か親あるいはその関係者だと思われた。
これまで、このブログを読んでくださっている方は、ゲイあるいはゲイを理解しておられる方を念頭において書いていた。 まぁ、たまには関係ないところから飛んで来るのは無視できるとしていた。今回の件に関しては、「ストレートの方々」に加えて「未成年の方々」にも配慮する必要が出てきたので、余計に悩む事態となった。
少し前の投稿で、やや過激な写真を引用したばかりであったので、15歳の少年少女に対してなにか悪い影響を与えないかと考え、無難に、「一時閉鎖」の処置をとった。しかしながら、何故「一時閉鎖」しなければならないのか疑問に思い始め、二日後に、小細工をして、ブログの稼働を再開した。
「検索エンジン対策」これは本当に由々しき状況である。 以前にもこの問題に触れたが、事態は深刻である。 「書きたいことが書けない」ことである。常に単語を気にせねばならないし、検索に引っかかりそうな単語は小細工を施さなければならない。
そもそも、どのサイトでも訪問者を規制できないのは十分承知している。 しかしながら、どこのゲイサイトでも「このサイトは同性愛の内容を含んでいます」とか「あなたの年齢は18歳以上ですか」云々の注意書きがある。オマジナイように見えるが、実際にそのオマジナイを書かないと、そのサイトを閲覧して、同性愛の文や図絵を見て精神的にダメージを受けたからと、閲覧者から訴えられるのであろうか。 はたまた、このオマジナイを書くことによって、サイト側は免責されるのであろうか。甚だ疑問ではある。
日本では、同性愛は「違法」ではなく、もちろんそのことを論ずることは当然「表現の自由」で保証されていると信ずる。 しかしながら、その自由と「猥褻」がしばしば問題になっているのは過去の歴史から見て解る。
最近のゲイ雑誌に変化がある。これらも、立派なゲイの表現だが、写真に関しては性_器に「ボカシ」を入れるが、イラスト、マンガの性_器の表現に「ボカシ」を入れなくなったことだ。DVDしかり、一応「ボカシ」は入れていますよ、とわかるのだが、実際は「丸見え」である。
20年近く前、ゲイ雑誌が創刊された頃は、この「ボカシ」の濃い薄いで当局から呼び出しを受けることが度々あったと聞く。
現実的には、ネットがここまで行き渡っている現代で、見たい情報は、国を超えボーダレスで見られる。たかがゲイ雑誌のイラストを当局がチェックする時代は、もう終わったのかもしれない。
私が心配した15歳の少年少女は、本当は何も気にしていないのかもしれない。私がその年頃に苦労して手に入れた、色々な情報は、彼らは充分入手しているのだから。