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2005年06月30日

ツルバダの巨大広告

trubada.jpg

 先週末のサンフランシスコでのプライドウイークエンドの特集を組んだ地元ゲイ新聞、Bay Area Reporter は通常の2倍のページ数であった。

 その中で、一番大きな広告は、抗HIV薬「Trubada」であった。Gilead社の製品である。 2ページに渡る全面広告の上に次項に1ページを使い注意書きが記されていた。
 何故こんなに大きな広告を出すのであろうか? この新聞の読者のほとんどは、一般のゲイである。 もちろん医療関係者も読んでいるではあろうが、あくまでも対象は一般である。 
 HIVへの関心は、多分ほかのアメリカの都市より高いかもしれない。 また、HIVを治療を受ける人が、薬剤を「指名買い」をするのを待っているのであろうか。

 Trubada・ツルバダ錠(エムトリシタビン・フマル酸テノホビル ジソプロキシル)は日本では4月6日に薬価基準に載り、日本たばこが製造している。 1日1回の投与ですむ。薬価は1錠3862.80円である。 

http://www.yakubutsuryoho-center.jp/cgi-bin/shinyaku/detail.cgi?id=195

投稿者 tokyobear : 15:26 | コメント (2) | トラックバック

2005年06月29日

桑港・プライド・パレード

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 諸般の事情により行こうか否かかなり迷っていたが、結局加州桑港に行ってきた。 6月の最終日曜日は「Pride Day」として、パレードを中心にあちこちで催し物が行われる。

 最初にこの日に感動したのはもう、十年以上前である。 「共に歩きたい」と考えてたが、パレードは、必ずどこかの団体に属さねばならない。 そのために、パレード直後から、地元のゲイ新聞(ベイ・エリア・リポーター)に目を通し、日本人が比較的簡単に参加できそうな団体を探し出し、郵便でのやりとりし、やっと次の年参加がかなった。
 以来、サンフランシスコ(桑港)通いが始まり、人との関係も増えたため、それ以降、意外に簡単にパレードに参加できる環境にいる。
 今回は歩くほうは200の団体で、数万人の行進、沿道に数十万人の観客があった。天気は曇りから、薄曇りの絶好な天気であった。晴天だと、温度が上がりすぎて、日焼けがひどくなるのである。

SFc2.jpg latino.jpg


 市庁舎付近では、数百のブースが出店して、盛況だったと思う。 私は、パレード準備のため、早朝にそこを横切っただけなので、昼間の状態はわからないのである。
 2時間以上、出発準備と待機で費やして、パレードは約1時間。我々は団体名を表したバナーを持つ人と、旗を持つ人、後方の安全監視人以外は、飾りを付けたトラック(フロート)にのり、沿道からの声援に応えた。 パレードが終わった我々は、そのまま、ホームバーに運ばれて、ビールで祝宴となったのである。
 "Happy Gay Day!" がこの日の挨拶であった。

写真引用
 サンフランシスコ・クリニカル紙 6月27日付け 表紙
 ベイ・エリア・リポーター 6月23日付け 
 Latino団体写真は本人撮影(6月26日)

投稿者 tokyobear : 11:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月21日

ボランティア&アルコール

View image

 今週末に行われる、サンフランシスコのパレードの話題である。 ネットを通じて垣間見る姿も、日本より、1歩も2歩も先を歩いている姿が見える。

 サンフランシスコのパレード本体は、午前から午後にかけて、数百の団体が参加して、出発するにも3時間くらいかかり、パレードは2KM位を1時間以上かけて歩く。 
 基本的には、パレードはグループ単位で歩く。 数人規模から、数百人まで、華やかなフロートを用意しているところ、コスチュームに凝るところなど、本当に千差万別である。
 準備も大変であるが、日本にはない制度もある。 「Parade Contingent Monitor」が、参加者の人数に比例して必要である。 これは、パレードの進行や安全確保のために求められる資格で、事前に講習受講が義務づけられている。
 また、パレード終点近くに、多くのブースが出店するが、私の属しているグループも出店し、ビールを販売する。 今年から、条例が変わり、このような場合でも、資格が必要になった。 「The Alcoholic Beverage Control (ABC) LEAD training for ALL bar staff working SF Pride alcohol booths」である。 たぶん市条例で決められたことであろう。 これも事前に2時間ほどの講習を受けなければならなくなった。 有効期間は4年間。
 ボランティアの募集も素晴らしくて、オンラインで行える。 自分の都合と、仕事内容が合致すれば、オンラインでサインアップするだけである。
 少し味気ない気がするけれど、とても便利なシステムである。

投稿者 tokyobear : 12:54 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月19日

MT3.17ja

 このブログはムーバブルタイプで稼働させている。 今月6日にバージョンアップして3.17jaとなった。

 前バージョンの3.151jaには、私にとって致命的な欠陥があった。
コメントを頂くと、メールで知らせてくれるのだが、前バージョンにしてからそれが出来なくなっていた。 
 今回はそのバグが修正されており、ホッとした。

http://www.movabletype.jp/archives/2005/06/movable_type_31_8.html#more

投稿者 tokyobear : 14:17 | コメント (0) | トラックバック

TLGP2005

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 昨夜ブログつながりのAさんとお会いした。 名古屋のNLGRでお会いしたのだが、忙しさに紛れて、ゆっくりと話しができなかったので、上京されるのを聞いて、少し時間を頂いて話すつもりが、私の友人Pに連絡したところ、3人で、ということとなった。

 居酒屋での2時間は、雑談というよりも、討論に近い形になった。 といってもAさんとPさんの間ではあるが。 
 そのあと2ちょうめのmというバーに移ったが、どうも店内が異常に活気づいている。聞けばTLGPの打ち合わせをしているとのことである。 そう、TLGPは事務所がないのである。 刷り上がったばかりの公式ガイドブックを頂いた。
 個人的には名古屋のNLGRが終わったばかりなので、TLGPはどうするのかは、まだ頭にない。
 将来的には、札幌パレード、TLGP、NLGR、大阪Plusには、社会参加したいと思っているが、今年の前半はNLGRで精一杯といったところ。 TLGPは、会員に向けてアンケートを行っている最中というのが現状である。
 頭は、次の週末に行われるサンフランシスコのパレードに行きたい、ということでいっぱいなのである。

投稿者 tokyobear : 12:21 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月15日

Pride Weekend

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 今月から来月にかけて、全米各地でプライドウイークエンドが行われる。 まぁ、難しい事は棚上げにして「楽しみましょう~」という趣旨である。今は。
 起源は、ニューヨークのストーンウォールに遡る。 しかし、それを知るゲイはミドルエイジ以上の年齢になってしまった。 私が渡米し始めた頃はまだ、ゲイに対する嫌がらせなどもまだ行われた時代であった。
 サンフランシスコのメインストリートのマーケット通りにレインボーフラッグが何本もはためいているのを見たとき、何とも言えない感情が湧いた。
 http://www.sfpride.org/

投稿者 tokyobear : 14:51 | コメント (0) | トラックバック

NLGR参加報告

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 案内の通り、先週末の土、日に名古屋で行われたNLGRへ参加してきた。
ブースに顔を出して頂いた方へは、挨拶程度の会話しか出来なかったのが心のこりである。
 

 トラックバックをさせて頂いた「JUNちゃん」さんのブログが、今回のNLGRのすばらしさを語っていると思うので、是非そちらをご覧頂きたい。

http://blog.livedoor.jp/gorevolution/archives/25204014.html
 
 NLGRは「HIV・AIDS啓蒙イベント」である。それを基にゲイのイベントとなっている。 我々のクラブも今回は「ゲイイベント」、「ゲイの交流」として参加したが、人によっては「HIV・AIDS啓蒙活動」の部分が、「楽しいイベント」と重ならないと思う人がいることも考えさせられた。

 このNLGRで動いた人は無報酬である。 札幌から、大阪、福岡からパフォーマーの方々が来られたが、全部自費参加である。 当然、主催者側のスタッフは半年前からの準備活動、当日のボランティアすべて手弁当なのである。

 私は日本ではこのようなイベントの参加には一歩身を引いていたのであるが、今回のNLGRは私に新しいインパクトを与えてくれた。

投稿者 tokyobear : 08:49 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月08日

名古屋・NLGR

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 今週末の土日に開かれるNLGRに参加するために名古屋へ行く。

 名古屋のイベントは「HIV・AIDSの啓蒙活動」「ゲイ・レズビアン」を前面に出してのイベントである。
 ウチのクラブも初の社会参加としてブースを出すので、もしこれを読んでいる方で、NLGRへこれれる方がいれば気軽に声をかけて欲しい。

投稿者 tokyobear : 14:39 | コメント (3) | トラックバック

2005年06月07日

「野郎」の語源

sinsyoy135.jpg
ちょっと調べて面白かったので引用する。
 このことについてはミクシィの日記にも書いた。

売色をしていた男子のことを、「かげま」「野郎」「若衆」などと呼んだ。それぞれに区別があり、時代と共に変化している。盛んに売色をしていたのは、若衆歌舞伎の少年俳優たちであり、その容姿は花に例えられ、女と見間違う、あるいは「見る者李夫人にうたがい、聞く者楊貴妃に訝る」とまで歌われるほどだった。しかし彼らに現を抜かし、互いの気持ちを証明するために股を小刀で突くなどの刃傷沙汰が一般に広がったため、幕府は若衆歌舞伎を禁止した。
 とはいえ、営業者も工夫をした。これに代わる売色者「野郎」が現われたのだ。この「野郎」にも種類があり、舞台を踏む者を「舞台子」「板付」、男役をする者を「若衆形」、女役をする者を「若女形」などと細かく分かれているのだ。幼い頃より、役者・売色者両方の修行を積まされる。彼の有名な “芳沢あやめ”は、幼少の頃より橘屋五郎左衛門に囲われ女に仕立て上げられた。服装、動作はもとより、考え方も女そのものであり、あやめ自身
 「心の底から女にならなくては女形は勤まらない」
と言っている。
 また、舞台子にもなれないような者や、色々な事情がありやっていけなくなった者は品の低い「飛子」となり、世話役の「金剛」と共に諸国を巡り出稼ぎをしたようだ

参考文献「本朝男色考 男色文献書志(合本)」岩田準一
      「江戸男色考(色道篇)」「江戸男色考(若衆篇)」柴山肇
      「江戸の盛り場」海野弘
      「諸艶大鏡(対訳西鶴全集二)」麻生磯次・冨士昭雄訳注


PS:写真は先月発売された新書y 135
江戸の男色 白倉敬彦・著 のカバー

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2005年06月06日

これから必要なもの

 この頃のゲイコミュニティで今後必要になってくるものを考えてみた。

 1)老後対策。 これはにじの永易さんが専門(?)なのだが、とても重要なテーマだと思う。 これにパートナーシップや同性婚が絡んでくる。 年金や保険はもとより、健康面、生きがいなどテーマはたくさんある。

 2)HIVをケアする人へのケア。
 HIVの蔓延防止としての活動は活発だが、HIVをケアする、友人、家族などのケアが、まだ後手に回っている。  友人から突然検査結果のことを告げられて、パニックになるケースが今後増えてくると思う。 そのような場合に備えて事前に勉強することは必要だと思う。 私自身、十数年前にそのような状況になってひどく混乱したことがあった。

 3)ゲイのためのメンタルヘルスケア
 ゲイがストレートに比べてメンタルヘルスを病む比率が高いかどうかはわからないが、現実的にメンタル系の病気に罹ったら、医師にライフスタイルやセクシュアリティのことを話さなければならないが、果たして、医師達はどれだけ理解できているのか、甚だ疑問である。

 問題を提起するだけで自分では何も出来ないもどかしさがある。

投稿者 tokyobear : 17:25 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月05日

旅暮らし

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先週から今週にかけて旅をしてきた。 毎度のことだが、今度も思い切りメリハリを付けた旅だった。

 日曜日の昼、予約が取れなかった関係で高松経由で沖縄入り。 1泊2500円の宿に荷物を置いた。 その足で、夕方の首里の行きつけの店で一服。 最近出来た思いっきりブランド志向のDFSのフードコートで友人と軽く食べ、楽しく喋り、その後は、お決まりの桜坂コース。 2件廻って、午前4時前に安宿に戻った。
 次の日、那覇からバスで1時間半そして、船で30分の観光にはあまり縁のない島へ。 民宿へ投泊、2食ついて5000円なり。 遊歩道を散歩していたら島の方のビーチパーティによばれて、初対面の方々と3時間ばかりのおしゃべりとビールと泡盛。 国際結婚されている方の里帰りだったので、英語、沖縄標準語、その島の言葉が入り乱れてとても楽しかった。6時夕食だったが、パーティの後だから当然満腹であった。 民宿の宿主は、それを持って、地元の集まりに行かないかと誘い、当然その言葉にのって、いそいそと集会所へ。 99%その島の言葉なので、全く解らない。が楽しいひとときであった。ビール瓶と泡盛の瓶が山になって終わったのが夜11時過ぎ。
 目の前の浜に降りると、静かに聞こえる波の音、満天の星空。 この島は本当からの船は夕方6時で終わり、朝7時まで、本島と隔別されてしまう。
 翌日、そんな島から戻ると那覇は大都会であった。 1泊2000円の旅館に泊まってみた。 沖縄の方と台湾の方のご夫妻が経営されているようで、1階は台湾語で占領されていた。何するでもなく時間が過ぎて、いつもくらいの時間にいつものように3件廻り、門限2時に滑り込んだ。
 月が変わった朝、少し早起きをして、空港に向かう。 2回の乗り換えを経て、午後3時には稚内空港に降り立った。 連絡バスで降り立った駅前は、活気のない街そのものであった。 アーケード商店街は人通りがなく、所々シャッターが閉まっている。たまに見かけるも年配の人だけだ。 なんの変哲もない食料品を買い込んで、その地方最高級ホテルへ戻った。最高級といっても、食事は無いが税込み6500円である。
 翌日6人しか乗車しなかったバスで札幌へ向かった。6時間後、札幌着いたが、この頃の街はどうしてどこも同じになってしまうのだろう。
 JR札幌駅のつくりとJR名古屋駅の印象がダブってしまう。 1泊3800円という中途半端だが、隣がゲイバーの入っているというロケーション。その日は朝4時まで喋り、次の日はダウン。 ほとんど日中をホテルで過ごし、夜中に隣のビルへ。
 翌日もだらだらと過ごし、夜のフライトで帰京した。
 私の周りにはオキナワ好きの輩が多い。その理由がわかるような気がした。

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